 |
 |
| History & Heisman Trophy |
多くのビッグテンのフットボール選手がニューヨークのダウンタウン・アスレチッククラブへハイズマントロフィーを受け取りにでかけています。
ハイズマン賞というのは、毎年そのシーズンで最も優れたカレッジ・フットボール選手に与えられている賞です。1935年、ビッグテンのシカゴ大学のQB、JAY
BERWANGERがハイズマン賞最初の受賞者となりました。
毎週毎週のビッグテンでの厳しいリーグ戦が、選手を全米最高の選手に鍛え上げ、ハイズマン賞受賞となるのです。
1940年から1960年の期間、6人のビッグテンの選手がハイスマン賞を受賞しており、この時代、ビッグテンの大学は8回全米ランキング一位に選ばれています。
何校かが、このハイズマン賞を占めていたのではありません。1950年代では、カンファレンス10校の内9校が、単独または同率で一度は優勝しており、1940年代でも6校が優勝しています。ノースウェスタン大学は優勝はないものの、1949年のローズボウルの勝者でした。
つまりビッグテンのハイズマン賞受賞者はその環境の産物であり、そのフットボールの実力は、シャンペーン、ブルーミントン、イースト・ランシング、ウェスト・ラファイエット、その他のスタジアムで培われました。
さて、ハイズマン受賞者達の大学での活躍をご紹介します。
1935年、ダウンタウン・アスレチッククラブは新しい賞に大学フットボールの偉大なコーチ、ジョージア工科大学のジョン・ハイズマンの名をつけました。
その年シカゴ大学には、学校の最後のオールアメリカン、最初のハイズマン賞受賞者となった、QBジェイ・バーミンガーがおりました。彼は、スピードを変化させ、鋭いカットをする天性を披露しながら同時に、前方奥のフィールドの状況を目にうかべる事ができました。バーミンガーは、全試合で1893ヤードラッシュ、パス921ヤード、パスキャッチ12回189ヤード、合計得点152点、パスインターセプト8回、パント8325ヤード、パントリターン平均10.3ヤード、キックオフリターン34回873ヤードを記録し、3年間14勝14敗2引き分けの成績を残しました。
1939年から3年続けてビッグテンは、ハーフバックのハイズマン受賞者を出しました。
アイオワ大学のニール・キニック、ミシガン大学のトム・ハーモン、ミネソタ大学のブルース・スミスで、彼らは皆オールアメリカンでした。
キニックの生涯は1943年悲劇的に幕を閉じました。海軍の戦闘機パイロットでしたが、彼の飛行機は海に墜落したのです。
アイオワ大学ホークアイズのグリッター(フットボールのフィールドがグリッド(碁盤目)のようなので、こう呼びます。)として、1939年にキニックは全米最優秀選手に選ばれました。
6勝1敗1分だったアイオワ「アイアンマン」チームの一員として、キニックは最後の7ケーム全420分の内、402分プレーしました。11個のタッチダウンパスを投げ、ドロップキックで11点のエクストラポイントをあげ、337ヤードのキックオフリターンでそのシーズンの全米最高を記録し、パスを8回インターセプトしました。トータル998ヤードゲインし、ホークアイフットボール100周年の1989年、アイオワ大学史上最も偉大な選手に選ばれました。スタジアムには彼の名前がついています。
ミシガン大学のハーフバック、ハーモンもまた万能選手でした。オールアメリカンに2度選ばれ、得点で2度全米最多を記録しました。1940年に出したシーズン117点というミシガン大学記録は、1991年まで破られませんでした。「オールド98(彼の背番号、同時にオールズモビル社製の車の名前)」は3年間でランとパスで3438ヤード、17個のタッチダウンパスを投げ、33点のエクストラポイントと2つのフィールドゴール、33個のタッチダウンを記録しました。
ハーモンのミシガン大学での送別試合となった、対オハイオ州立大学戦は、彼の業績を象徴するものでした。走っては139ヤードと2つのタッチダウン、投げては12のパスの内11を決め、2つのタッチダウン。加えてインディアナ州ゲーリー出身の彼は、4つのエクストラポイントと平均50ヤードのパントを蹴りました。
ハーモンは1990年に亡くなりましたが、第二次世界大戦の英雄でシルバースター(陸軍勲功賞)とパープル・ハート(名誉負傷賞)を受けています。短いプロ生活の後スポーツ放送の仕事に進出し、成功しました。
ビッグテンの選手でただ一人、ハイズマン賞を獲得したのと同じシーズンにチームを全米チャンピオンに導いたミネソタ大学のブルース・スミスは、彼のコーチのバーニー・バーマンに「指導してきたなかで最も完成した選手」と言わしめたほどです。
トリプル・スレット(キック・パス・ランの三拍子揃った選手)としてミネソタ州フェアーボルト生まれの彼は負け知らずのミネソタ大学ゴールデン・ゴーファーズ(1940,1941年とも8戦全勝)で、最高のラッシュ1,203ヤード、パス476ヤードを記録しました。
スミスはキニックやハーモンと違って一人がチームを代表する、といった存在ではなく、むしろ1934年から1941年にかけて、6つのビッグテンタイトルわ勝ち取ったミネソタ王朝に絶対欠くことのできない要の部分でいえるでしょう。
スミスは第二次世界大戦の時、戦闘機のパイロットとして従軍し、プロ選手としては、グリーンベイとロスアンジェルスでプレイしました。そして彼は癌の為、1967年に亡くなりました。
オハイオ州立大学のレス・ハーボスは1944年にハイズマン賞を受賞しました。戦時中ということで、競技年数の制限が緩和されていましたが、ハーボスは4年目のこの年、若いオハイオ州立大学バックアイズを9戦全勝、全米ランキング2位に導きました。強力な陸軍士官学校チームに次ぐものでした。
彼の記録したトータル・オフェンスは1,248ヤードで、その内905ヤードはランで、5.6ヤード/キャリーの平均でした。それまでの過去24年間で最初のビッグテン優勝をもたらしました。
それから6年後、ヴィック・ジャノヴィックスがラッシュ、パス、パントの3部門でその年のバックアイズ最高を記録し、ハイズマンに選ばれました。3年生ながら賞を受けた1950年、ジャノヴィックスは65点の得点をあげるとともに、314ヤードラッシュし、561ヤードのパス、平均36.5ヤードのパントを記録しました。
その年の伝説的な対ミシガン大学の「スノーボール」ゲームでは21回パントし、685ヤード稼ぐと共に、吹雪をついてフィールドゴールを成功させました。1950年のローズボウルではカリフォルニア大学(バークレイ)を相手に、ジャノヴィックスはパスを2度インターセプトし、それを一度は46ヤード戻すなど、バックアイズに17対14の勝利をもたらしました。彼は1487ヤードのトータルオフェンスと103得点でその大学生活を終えました。
| | |